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国宝「飛雲閣」でのお茶席、そして「能」の鑑賞。(京都 西本願寺)
 京都の西本願寺では、親鸞の誕生日とされる5月21日に、「親鸞聖人降誕会」と称して、祝賀能などの祝賀行事が催される。

 この5月21日は、金閣、銀閣と並び「京都の三名閣」と称される普段は非公開の国宝「飛雲閣」が一般公開される数少ない日。飛雲閣のあのいかにも破天荒なたたずまい、実際目にしてみたいと常々思っていたところ。

※ちなみに飛雲閣とは、漫画「へうげもの」で秀吉の聚楽第の建物として描かれている「あの建物」である(→飛雲閣の写真ページへのリンク)。「写真撮影は控えてほしい」旨の注意書きが張ってあったので、一応こちらで写真は載せないことにする(みんな写真撮ってたけどね)。
 桃山時代の権力者が金閣や銀閣をつくったらいかにもこうなるのではという、部分部分はいかにもアンバランスな組み合わせなのに全体的には何となく調和がとれているという不思議な建造物で、聚楽第の遺構と言われているのもなるほど分かる気がする。実際に聚楽第の遺構だったという確証はないらしいけれど。


 事前に得た情報では、飛雲閣でのお茶席・そして祝賀能など、当日の主要なイベントは基本的に招待制になっていて、招待されていない一般人は志納金(5,000円以上)を納めて初めて参加できるとのこと。結構な負担だが、能の公演も観られることだし、ここはひとつ行ってみることにした(招待客以外も参加できるとはいえ、志納金を納める際に教区やお寺の名前を書かされるので浄土真宗以外の方が参加できるかどうかはよく分からない)。

 それまで能の公演を実際に観た経験はなかったが、本を読んだり能のCDを聴いてみたり、以前から能の魅力にはかなり惹かれるものがあったので、どちらかというとワクワク気分なのである。


 西本願寺に着いたのは11時30頃。能の公演は12:30から夕方まで続くので、飛雲閣は能が始まるまでに行っておかねば、能を途中退席でもしないと見ることができなくなってしまう。早速チケットを購入し、いざ飛雲閣へ!(情報どおり、志納金は5,000円から。)

 と思いきや。招待客というのが余程多いのだろう、入口に長ーい行列ができている。飛雲閣に入るまでの待ち時間、約40分。「滴水園」という庭園の中を少々歩くと、目当ての飛雲閣が目に入る。

 一目見た瞬間、喜びの感情が心に満ちてくる。写真で何度も見たアシンメトリーな建物は、実際立体で見ると、アンバランスなパーツが奇跡的にうまくまとまった感が一層強い感じがする。これは変わっている。少し無理して来た甲斐があったと思う。

 飛雲閣の中、1階の広い部屋で抹茶をいただく。藪内流の方が提供するお茶。何十人単位でいっぺんにお茶が出されるので藪内流がどうとかいう細かいことは分からない慌しいものだが、全員に天目茶碗でお茶が出されたのはお寺の公式行事らしいなと。天目茶碗、手触りもしっくりくるし、実際にお茶を飲んでみても案外使い勝手の良い、お茶を美味しく頂ける器だと感じたところ。
 大人数なので、有名な茶室「憶昔席」が見られないのは多少気になるが、それをカバーする意味も込めてか、お菓子に刻印された銘は「憶昔」。それなりの気づかいか。

 能は、「降誕会祝賀能」という催しで、同じ西本願寺の書院(こちらも国宝)にある能舞台で行われる。12:30から17:00前までという長丁場で、大まかにいうと能が2本、間に狂言が1本という構成。流派は観世流。幕間に間断なく「舞」などが入り、よりによってそこで人間国宝が舞ったりするので、トイレ休憩は一切望めないものと考えて良い。事前に気をつけておいたほうが良い。

 今回の能の演目は、「半蔀(はじとみ)」に「融(とおる)」。「半蔀」の主役は源氏物語の夕顔(の亡霊)、「融」の主役は、源融[みなもとのとおる](の亡霊)。亡霊づくしの夢幻能というやつである。源融は光源氏のモデルと言われており、源氏物語千年紀にちなんだプログラミング。狂言の演目は「佐渡狐」。こちらは何にちなんでいるか分からぬ。

 飛雲閣を出て書院に入ったのは開演5分前。事前に整理券をもらっていたが、すでに客がぎゅうぎゅうに入っていて役に立たず。最初は客席の後ろのほうで見るハメに。舞台も遠くに小さくしか見えない上、建物内の柱が邪魔で見づらいことこの上ない。せっかく直接見に来たのに、客席内に設置されたモニターのほうが余程見やすいという状況。

 招待制だとか入場料が格安だとかいう場合は大概ミーハーな軽い客が多いものだが、今回もその例にもれず観衆のマナーは最低。能がはじまってもペチャクチャしゃべったり、アメ玉を舐めるのに平然と包み紙をガサガサいわせる。携帯を派手に鳴らす輩もやはりいる。最初のは耐えに耐えて見た感じで楽しむどころではなかった。

 が、そこはミーハーなお客のこと。中入などで一区切りつく度に大量のお客が退いていき、少しづつ前で見られるようになる。結果、「半蔀」が終わり次の狂言が始まる頃には中央、前から2列目という特等席で楽しむことができた。

 特等席で楽しむ能や狂言は、意外にも時間の経つのを忘れさせてくれるものだった。息が詰まるような緊張感が続く能と、その息抜きとしての狂言。バックの囃子方の演奏をみているだけでも結構楽しく過ごせる。個人的には大鼓(おおつづみorおおかわ)の乾いた音が大好きで、掛け声とともに大鼓をカッと打つ姿は何回見ても結構見飽きないものだ。、狂言も面白かったが、強く印象に残るのは、やはり能のほうである。

 「融」でのシテ(主役)の舞。動きは極端に少ないが、その少ない動きがオーラを満面に湛えている。動きを抑制することにより、エネルギーが凝縮されている感じがするのである。そしてある一瞬、わずかな動作ながら印象的な動きで、エネルギーがパッと解放される。そのときの印象は鮮烈なもので、そういう瞬間、例えば「融」の前半終わり、老人(融の化身)が海水を桶で汲む時に桶をパッと投げ出す所作や、同じ「融」の後半、融の亡霊が舞台の前方に意味ありげにたたずんだり、扇をぱっと投げ出す所作。写真のように目に焼き付いている。良い体験をしたと思う。

 よく、こういうのに馴染みがない人に狂言だけ見せるような紹介の仕方があるが、能の凄い所をいきなり見せつけたほうがちゃんとしたファン層が広がるのではないかと思う。狂言というのは、やはり前後に能があって引き立つものだなというのは実際に見てみて実感した次第。

 能というのは確かに馴染みがないととっつきづらいかもしれないが、決して死んだ芸術を惰性で続けている分野ではない。世界の芸術の分野の中でこれほど突出した、エッジの立った芸術はそうそうないと思う。まだ見たことのない方は、ぜひ一度直接見に行ってみることをおすすめする。テレビ画面を通して見る能が著しく退屈なのは、テレビ画面を通して見る演劇が著しく退屈なのと多分同じである。


「お能の愉しみ(一輪庵)」というサイトの「能の舞台を貫いている〈論理〉は、夜の夢のそれに近い」というフレーズには大賛成で、能とは夜を色濃くイメージさせる幻想的な芸術という感じがする。お気に入りの演目の案内など、色々な面でかゆいところに手が届く素敵なサイトなので、興味のある方は一度サイトを覗いてみてはいかが。


○音楽から入る、というのも意外に効果があると思う。というのは、決定的に凄い演奏がCDで残されているからだ。管理人が能に興味を持った最初のきっかけは、この演奏を触れたことによる。
 フリージャスの理想を限界まで煮詰めたような、演奏者・演者同士の緊張した空気感がばっちりCDに記録されている。「道成寺」の白拍子の舞の部分。ほとんど無音の中、シテ(主役)と小鼓が、互いの呼吸を計りながら渡り合うところ。無音部分に込められた異様な緊張感といったら。当時の人間国宝が6名参加という、オーラ漂いまくりのCDである。

・能楽囃子~至高の四重奏
「道成寺」「鶴ノ舞(新作)」「鈴ノ段(三番三)」「猩々乱」「獅子」
[ビクターエンタテイメント VICG-60394]


○もちろん、本から入るというのも手段の一つだろう。能というものの本質をコンパクトな文章で魅力的にまとめた白洲正子あたりから手をつけてみるのも面白い。

「名人は危うきに遊ぶ」白洲正子 著(新潮文庫)
 ※「能の型について」や標題作「名人は危うきに遊ぶ」といった文章は非常に面白く、興味深い。読み易い文体で3ページ~5ページとコンパクトにまとまっているのも魅力。
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西本願寺、飛雲閣の中でのお茶席

5月21日、西本願寺 の祝賀能に行ってきました。 たまたま妹が本願寺幼稚園に勤めているというご縁でチケットをいただきました。 人間国宝の片山幽雪さんが出演されていたそうなのですが、僕は無知で全然わかりませんでした。 能を遠目より激写!!

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